「火曜散策」2024.11.12By SeimeiWada
(pho;三十三間堂「不退転」)
▲命題1
認識を欠く意志のあらわれである本能。
▲命題2
認識は意志に仕え、意志の目的を実行するように定められている。
▲命題3
意志の自己廃棄、すなわち諦念。認識が意志に逆作用するときである。
▲考察
諦念という梵語でupaksaウパクシャーということばがある。語源的にはup-の上に、iksaイクシャの見るからなる。広く見れ、ということである。
このことを美術芸術の面からみてみよう。
欲望を誘う、すなわち意志が全面にでてきている静物画にはたして美を感じいれるであろうか。美の根底には対象の背後に、或るイデアを感じさせる示唆を含んでいなければ芸術の、ひいては美をよびさまさない。
意志はわれわれに強力に俗物人間であることを押し付けてくる。そこを上から視野をひろめて、すなわちupaksaしてありえる修行が大切となってくる。どんな修行がいいのかとなる。
一例としては、心身脱落(シンジンダツラク)という一字にこめられようか。
どういうことか。
平穏を保つ、座る、作務をなす、食事を取る、睡眠をとる、その日常に自己を没入させたそのものの形に存在しているという、ただその境地にありえる。すなわち心身脱落である。そう解釈をほどこしたい。
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[彼らは欲する。
絶望から身を守れるほどに成功し、
退屈から身を守れるほどに失敗する。
By SeimeiWada]